研究レポート「応援方法の考察」

応援方法の考察

―レンズの写像公式に見る応援組織の有用性―

 

初代リーダー部長 斎多遼太郎

 

はじめに

レンズとは、光を屈折させることで収束または発散をさせる道具であり、日常生活においても多く用いられている。ここでは、応援組織の持つ人々の応援をまとめ上げ一点に集中させるという役割を、凸レンズの構造と性質の中に見出し、その有用性と合理的方法について論じていく。
論を展開するにあたり、多少なりともレンズに関する知識が必要となるため、簡単にではあるが先に説明書きを付しておきたい。
凸レンズに光軸(レンズの二つの球面の中心を結ぶ直線)に平行な光線を当てると、凸レンズ後方の光軸上の一点Fに光が集まる(図ア)。逆に、点Fから出る光は、凸レンズを通過後、光軸に平行に進む。このような点Fをレンズの焦点と呼び、レンズの中心Oから焦点Fまでの距離fを焦点距離と呼ぶ。焦点はレンズの前後に一つずつ存在し、それぞれの焦点距離は等しい。

 

図ア

また、レンズの中心を通る光線は、その方向によらず直進する。
凸レンズの焦点の外側に物体を置くと、レンズの後方にあるスクリーン上に、物体と相似な像ができる(図イ)。この像は、実際に物体からの光が集まってできるため実像と呼ばれる。

 

図イ

 

ここで、凸レンズと物体の距離をa、凸レンズと像との距離をb,レンズの焦点距離をfとすると、次の関係式(写像公式)が成り立つ。

 

1 / a + 1 / b = 1 / f
 

また、物体に対する像の大きさの比m(倍率)は、次のようになる。

 

m = b / a
 

物体を焦点よりも凸レンズに近い位置に置いた場合、物体からの光は凸レンズを通った後に広がるので実像はできない(図ウ)。物体をレンズ後方から見ると、あたかも拡大されているかのように見える。この像は、実際に光が集まってできているわけではないので、虚像と呼ばれる。

 

図ウ

競技応援

本郷学園応援委員会において、応援活動は「競技応援」と「舞台応援」に大別されている。その名の通り、競技応援では各団体の試合や選手を直接応援するもの、舞台応援ではステージや広場にて多くの人々を前に行うものを指している。ここからは、そのうち競技応援について考えていきたい。

 

1、野球応援

競技応援において、最も代表的なものが大会応援である。この大会応援について、野球応援を例にとって考察をしていきたい。
まず、応援組織(応援を司る組織のこと)がある団体の応援に出向くにあたっての最大かつ究極的な使命が、その団体の勝利である。すべての行為、思考はこの目標に向かってなされなければならない。そして、この使命を果たすべく立てられるいわば二次的な目標が「観客・応援の統括」であり、ここにより明確な応援組織の存在意義を見出すことができる。このことに気づいていない人間はより上手でパフォーマンス的なリーダーを追求しようと躍起になりがちだが、これは本懐から外れた姿勢である。ただし、キレのある上手なリーダーは結果として観客の盛り上がりを高めるのは紛れもない事実である。
観客からの応援が選手にどれだけの効果をもたらすかということは、様々な競技におけるホームゲームとアウェーゲームの成績差を見ても明らかである。欧米のサッカーチームでは、ホームとアウェーの勝率の差が30パーセントも離れているところもあるというのだ。このように絶大な効果を持つ観客の応援は、気持ちだけではなく目に見える形で表されなければならない。その為には、観客全体を先導し、まとめ上げる存在が必要となってくる。しかし、観客の応援をまとめることは容易に出来るものではなく、一般に想像されるように前に立って声を荒げているだけでは決してできない。ここで重要視されるべきなのが、観客統括の合理的な方法であり、そのヒントを握っているのが凸レンズの写像公式なのである。
ここからは、凸レンズを応援組織に、物体を客席(客席の総体)に、実像を対象に実際に届く応援に見立てる。また、光が集まる焦点は、応援という点において観客の意識が一点に傾けられる応援方法(応援曲、コール等)とすることができる。そして焦点距離は、応援組織と応援方法の距離を表しているから、応援組織の閉鎖度と見ることができるだろう。早速だが、この構図を凸レンズの写像公式に当てはめると、

となる。また、客席の応援がどれほどの大きさで選手に伝わるかということを表す像の倍率は、

となる。応援組織と客席または対象との距離というのは、物理的な距離ではなく精神面における距離を指し示している。唐突ではあるが、ここで一つ重要な仮定をしたい。それは、応援組織と対象の距離が伝わった応援によってのみ増減する(対象との距離は、対象に伝わる応援の大小によって一意的に決定する)というものである。選手たちにとって応援組織は自分たちを最前線で応援してくれる存在であり、その見方は普通変わらない。そして、より良い応援を送ることが出来れば距離は近くなるだろうし、逆に拙劣な応援しか届かなければ距離は遠くなってしまうからだ。この仮定により、二つの式はそれぞれ「応援組織と客席との距離と応援組織の閉鎖度」、「応援組織と客席との距離と対象に伝わる応援」の関係を示したものとなる。各要素の関係を表にまとめると、表エのようになる。すなわち、応援組織の閉鎖度が小さくなり観客にとって親しみやすい存在になればなるほど、対象に届く応援も自然に大きくなるのである。このことは、自分勝手に暴走して組織の中のみで完結した応援をしようとする光景を想像すれば容易に理解できるはずだ。観客のことを全く意に留めようとしない応援組織を前にして消沈し、本来持っているはずの応援する気持ちを表に出さないままになってしまい、その気持ちは選手に全く伝わらなくなってしまう。むしろ、盛り上がらない客席を見て選手が負のイメージを持ってしまう可能性すらあるのだ。これでは本末転倒である。つまり、観客との距離をいかにして縮めていくかということが応援組織にとっては非常に重大な課題であり、その存在価値に直接関わってくるところでもあるのだ。

表エ

しかしながら、観客との距離を縮めるという点において一つ問題が生じてくる。それは、観客が応援組織よりも応援方法に精通するようになってしまう、すなわち焦点の中に入り込むことで、虚像が作られてしまうことである。そのような観客は、応援方法をよく知っているあまり、例えばコールを勝手に始めてしまう、前に出てきてリーダーの位置に立ってしまうなど、傍若無人な振る舞いによって全体のまとまりを乱してしまう危険性を持っている。これを防ぐためには、まず応援組織自身が自分たちの応援方法に最も精通している存在であり続けること、そして観客を焦点の中に入れないうまい距離間を保ち続けることが必要である。

さて、それではどうすれば観客との距離を適切に縮めることができるのだろうか。
まず第一に、観客のことをよく知ることである。あなたは性別、年齢、職業、人柄などのその人にかかわる事柄を知らない相手と親密な関係を築くことができるだろうか。おそらく「はい」と答える人はごく少数で、大体の人々は「いいえ」と答えるのではないだろうか。少なくとも日本人にはそういった傾向があるように思われる。応援を統括する立場にいる人間にも同じことが言える。観客の年齢層や雰囲気をよく知っておかなければ、その場にそぐわない応援を創り上げてしまうこととなり、応援組織と客席との乖離を招きかねない。「臨機応変に対応しましょう」や「その場の雰囲気で決めていきましょう」とはよく使われる言葉だが、これらの言葉ですらもその前提の中に観客のことをよく理解しているということを含んでいるのだ。高校における応援活動では、事前に生徒間でコミュニケーションを図り親睦を深めておくことも可能であるし、また現場でも積極的に接していくことで観客のことをより知ることが出来るようになる。
次に、応援組織として創り上げようとする応援の大枠を確固たるものとして持っておくことである。これは、観客との距離を縮めるという課題に相反する姿勢であるように感じられるかもしれない。しかしながら、観客との距離を適切に保持していくためには柔軟さだけでなく、一貫性も持っていなければならないのだ。むしろ、一貫性の中に柔軟さを取り入れると表現するべきだろう。柔軟性だけでは、応援をリードし統括する役割である応援組織が観客に飲み込まれてしまい、選手に響くような応援ができなくなってしまうだろうし、一方で一つの形を突き通そうとする強硬な姿勢だけでは、観客との分断が生じてしまう。一つの形、流れの中で観客の状況に合わせたマイナーチェンジを加えていくことが最良の方法であるように思う。

 

2、壮行会

壮行会は、直接応援に行くことが得策ではない場合に事前に行う応援活動である。応援の形式は変わるが、対象の勝利という使命に変わりはない。しかし、それに対しての第二次的な目標は大きく変わってくる。というのは、野球応援などのような会場で直接応援するタイプの場合、そこにいる観客は少なからず興味・関心を持っていて応援をしたいという気持ちを持っている。一方本会が行う壮行会においては、観客(一般生徒)が必ずしも最初から応援する気持ちを持っているというわけではない。したがって、観客の応援を統括すること以前に、観客に応援する気持ちを起こさせることが必要なのである。すなわち、レンズとなり応援を統括する応援組織であるとともに、レンズに最初に光を通す観客ともならなければならないのだ。
本郷高校における受験生壮行会を例にとって考えたい。まず、下級生をできる限り引き付け興味を持たせる策を講じなければならない。例えば、応援旗や大太鼓などで感覚に訴える方法は効果的だろう。ここで絶対に避けなければならないのは、一般生徒をとの距離を縮めすぎてしまい、つまり焦点の中に入れてしまい、虚像が作り出されてしまうことである。全体で素晴らしい応援を創り上げることが最も良いのだが、それを目指すあまり像が虚像となり応援が伝わらないのであれば、その最悪の状況を回避するための対策は如何なるものでもやむを得ないとも感じられる。

舞台応援

先に触れたように、舞台応援とは多くの人々を前にして行う応援活動である。観客を応援するという形式は競技応援の精神に通ずるところはあるが、パフォーマンス的な要素を多分に含むため、対象の勝利を大目標として掲げる競技応援とは大きく異なる演出をしなければならない。ここからは、その演出方法について考えていきたい。

 

3、リーダー演技披露

本会においてリーダー演技披露は、観客に対して日頃の感謝の気持ちを表現するとともに、観客を応援するという目的をもって行われている。
舞台応援では大会応援とはうって変わって、応援の対象は観客、そして応援をするのは応援組織という非常に簡単な構図をとっている。つまり、応援組織がレンズと物体の両方を完全に兼ねることが出来るため、観客に対しパーフェクトに近い応援の像を送り届けることが可能になるのだ。このことをレンズに即して詳しく見ていきたい。
まず観客との距離は、野球応援の節で論じたのと同様に、観客に届いた応援の良し悪しによって決まってくる。したがって、とりあえずはこれを変数と見ないこととする。次に、物体との距離と焦点距離について。凸レンズでは、物体の位置を焦点に近づけるほど作られる実像は大きくなる(図オ)。応援も同じである。応援組織自身(物体)を焦点により近い位置に立たせること、すなわち持っている応援方法の中で自分たちを完璧に輝かせ、それらを適切に駆使することで観客に届く応援をより大きく素晴らしいものとすることができるのであり、これこそが舞台応援における応援組織に与えられた命題なのである。

 

図オ

さて、演劇の三大要素は「脚本・役者・観客」だと言われている。そしてこれら全てを最高のレベルへと仕立てあげるものとして「演出」があるのである。舞台応援にも全くもって同様のことが言える。脚本とは披露する演技とその順番、すなわち進行のことであるし、役者とはリーダー(舞台上で演技をする部員)のことと捉えられる。そして、応援方法の魅力を一層引き出すことで効果的に用い、先に書いた目的を達成させるものが演出である。最高のパフォーマンスを見せようとする舞台応援は、脚本・役者・演出のどれが欠けても成功しない。したがって、「進行・リーダー・演出」この三つの要素がそれぞれ高い水準に達していることが、観客の心に大きな感動を呼び起こす条件であるのだ。
野球応援に脚本は存在しえない。事前に試合展開を詳細まで予想することが出来ないのだから当たり前である。一方で、舞台応援に脚本は当然のごとく存在する。これはひとえに、限られた時間の中でいかに自分たちの応援の気持ちを伝えるのかという課題に向き合った結果である。だから、演技披露の構成を練る際にはまずそれを念頭に置いておかなければならない。目的意識をきちんと持てたら、次はどういった進行をするかを決めていく。この時に留意すべきポイントは、「会場の熱気に起伏をつけること」と「観客を飽きさせないこと」である。人間、変化のないものには魅力を感じづらく退屈に思ってしまうものである。観客にそんな思いをさせてしまうことは、最高の応援を提供しようとする応援組織にとって最もしてはならないことである。観客全体を含めて楽しく盛り上がる部分や、厳かな雰囲気で会場を包み込む部分、そして少し心を休める部分などを上手く組み合わせて、メリハリのある進行を目指さなければならない。例えば、本会の応援方法で言えば応援曲メドレーは盛り上がるパートに、本郷音頭は厳かなパートに、司会では少しユーモアを交えながら小休止のパートにといったところだろうか。
脚本と同様に、役者も野球応援には存在しない。なぜなら、野球応援における応援組織の役割はあくまで応援を統括し対象に送り届けることであり、観客に対しパフォーマンスを見せることは本懐ではないからだ。逆に、観客にパフォーマンスを見せる舞台応援では、応援組織は役者にならなければならない。より良い役者になるためには、もちろんリーダーの技術も必要であるが、その他にも自信、迫力、経験なども重要である。技術が高くて尋常ではないキレの持ち主でも、自信が無さそうな様子が見えてしまえば観客に気持ちは伝わらない。また、迫力に満ち溢れた演技であっても、技術が伴っていなければ拍子抜けされてしまうかもしれない。特に、吹奏楽などの音響がなく観客の注目がリーダー一点に注がれるような演技では、リーダーの魅力度が演技そのものの魅力度の大部分を左右すると言っても過言ではない。センターリーダーだけではなく、受けにしてもそうである。たった一人のミスや自信の無さそうな素振りが全体のまとまりを損なってしまう。
三つめの要素である演出。オペラ演出家として後世に多大なる功績を残したヴォルター・フェルゼンシュタインは、演出というものについて「作者がなぜそのオペラを作ったのかを観衆にできるだけ的確に理解させるための表現」だと説いたそうである。これを舞台応援に置き換えるとすれば、「応援組織がなぜ舞台応援を行うのかを観客にできるだけ的確に理解させるための表現」となる。平易な言い方をすれば、演出とは、舞台応援の目的を確実に、そして明確に果たすべく自分たちを完璧に輝かせるための手段ということである。舞台応援の演出は、照明・音響などの舞台装置にとどまらず、舞台上でのリーダーの立ち位置や動き方、座席の配置の仕方など多岐にわたる。照明は、適切なタイミングで明暗を調節することで会場の雰囲気を変え、進行のメリハリに貢献することができる。極端な例ではあるが、会場全体が明るい中で披露される本郷音頭と、舞台上だけが明るく照らされた中で披露される本郷音頭、両者の違いを想像してみてほしい。かなり違った印象を受けることと思う。また、音響は舞台応援をより豪華なものにする重要な要素である。吹奏楽は応援曲メドレーなどで華やかさを付与し、大太鼓はその重厚な音圧で場の空気を引き締める。この音響の使いどころも、舞台進行の上で非常に大切だ。

前に、応援組織と観客との距離は変数と見ないと書いた。ここで、これを変数と考えるとどうだろうか。舞台応援の種類によって観客からの注目のされ方もまちまちだろうから、この考え方も不自然ではないはずだ。注目をされるということは、その分かけられる期待も大きく観客との距離は最初から近いものとみなすことができる。観客との距離が近いと、観客のもとに作られる応援の像は小さくなってしまう。少々意外に思われるかもしれないが、期待が大きい分それを上回るものを見せなければ良い応援とはならないと考えれば納得がいく。だからと言って、注目度が低いときに粗雑な応援をしてもよいかというと、言うまでもなく答えはノーである。観客との距離が遠い、そういう時こそ観客の心の中にとてつもなく大きい応援の像を作るチャンスなのである。

おわりに

レンズを利用している代表的な物に、虫眼鏡が挙げられる。本来は小さいものを拡大するために使用する道具だが、それとは別の力も持っている。既に知っている方も多いだろうが、晴れた日に外に出て黒い紙の上に虫めがねを当てると、虫めがねによって集められた太陽光によって黒い紙が焼け焦げ、ついには穴が開いてしまうのだ。約1億5000万キロメートルも離れた太陽の光をそれほどの熱に変えてしまうのである。虫眼鏡の他にも、眼鏡やカメラなど身近なところでレンズは用いられ、日常生活になくてはならないものとなっている。また、望遠鏡や顕微鏡など学術的な場面でその力を発揮し、科学の発展にも必要不可欠な存在としても活躍してきた。
応援組織も、誰かに応援を送りたい、しかし一人や二人ではどうすることもできないという人々にとって、そういうレンズのような存在になることができるはずである。少なくとも、その構造と性質には似通った部分が多い。あとすべきことは、自分たち自身のレンズ的役割を正しく認識し、その認識に基づいて適切なアクションを起こすことだけなのではないだろうか。

(『塔影』第48集・2015年3月31日)